05.18.00:19
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04.29.03:31
二酸化炭素経済
早速でございますが、21世紀は二酸化炭素排出量取引が一つの経済的指標になって金融市場を潤してくることは間違いないでしょう。
経済とは、経済学において『物質の生産・流通・交換・分配とその消費・蓄積の全過程、およびその中で営まれる社会的関係の総体』と解釈されているように、資本主義体制にとって不可欠の要素であり、経済という概念を用いて市場を運営し、このシステムを駆動するために、資本家が各産業にたいして多額の投資を行い、その利潤が最大化される部分で、世界的な流通・交換・分配が行われ、そのストックとして、われわれが消費・蓄積を行います。
そもそも、経済が学問として台頭するようになった代表的名著にアダム=スミスの『国富論』(1776年)がありますが、この年はまた、アメリカが独立宣言を発表した年でもあり、また、ヨーロッパ大陸では市民革命の咆哮が各地で上がり、イギリスなどは市民革命を成し遂げた後、産業革命に突入しつつある、まさに激闘の時代に、今の資本主義体制の基礎が確立されたと言えます。別な見方をすると、『市民革命によって職業が自由化された⇒大量の物々交換の必要性⇒市場と金融の要請⇒資本主義社会・経済至上主義の台頭』という構図になります。
ある意味、資本主義は民主主義を運営していく上で、絶対的な役割を担っており、それ以外の体制の末路は近代200年間の歴史が物語っています。しかしながら、この期間は、人類の経済活動において、二酸化炭素という概念はほとんど付加されていませんでした。
二酸化炭素についての国際的な研究が具体的に開始されたのは、1988年にEUが主体のIPCCが設立されてからであり、“排出量”という言葉が用いられ始めたのはこれ以降だったと思います(これは、あくまで二酸化炭素に特化した、という観点からです)。
人類が経済活動を行うと、二酸化炭素が排出されるのは自明の理であり、これの回避は熱力学第二法則に反します。二酸化炭素の排出量を削減することは、単純に“経済規模を縮小する”か、“人口を削減する“か、“新たなシステムを構築して、その中で二酸化炭素の取引をする”ことに相当するのではないかと思います。現実的な手段として、京都メカニズムにおいて、“炭素取引”は実用化しています。実際、我が国はこのメカニズムをもちいて2012を達成しようとしています。
われわれが経済性を鑑みず、ひたすらに低炭素社会を実現するために邁進したとするならば、われわれが不可抗力によって排出する二酸化炭素は森林吸収減と等しくなり、理想的な炭素循環は実現するでしょう。しかしながら、われわれが経済を手放すということは、資本主義を放棄(または脱却)することであり、これすなわち民主主義体制の崩壊を意味し、最終的に持たざる者が持つ者によって支配される、といった、帝国主義の再来たる懸念も生じてきます。
この議論の真意は、まさにここにあるような気がいたします。実際の話、現在10億にも満たない我々が先進国が、かつて一方的に確立した経済原理を用いて資源欲しさに世界各地に武力を用いて進出し、大量の化石資源を消費し、経済を発展させ世界を支配した挙句、その弊害は70億に達そうとしている世界人類の頭上とその未来に平等に降り注いでいます。
前述したように、経済市場主義はたとえ欠陥があるにしても、民主主義社会を目指す以上、不可欠なシステムであることは間違いありません。かつて、イギリスのチャップリン首相はこう述べました。
『民主主義は最悪の統治システムである。これまで存在してきたあらゆる統治体制を除いては。』
また、アメリカの第35代大統領J.F.ケネディはかつてこう述べました。
『世界で起こるあらゆる事象は、ある必然的な意志によって支配されている。』
『神の見えざる手』は、本当に『神』なのでしょうか?
さてここで、われわれが、この日本が成さなければならないことは一体なにか?という話になってくるかと思います。
それは、かつてこの国が200年間戦争がなく、完全に閉じたシステムの中で経済活動を全うしてきたという歴史と、和という調和を尊ぶ質実剛健な精神を思い返し、自然界に存在しているような、最小のエネルギーで駆動する、最も効率のよいシステムである自然の中で知恵とテクノロジーをはぐくみ、その中で共存する、といった経済システムを確立することではないかと思います。これは、世界広しといえ、日本にしか成せない技であると思います。
炭素に値段をつけたところで、歴史は、埋蔵資源完全枯渇といった局面に直面した時に、繰り返すことでしょう。
変えなければならないのは、経済システムであり、考えないといけないことは、これからの共生の在り方です。
経済とは、経済学において『物質の生産・流通・交換・分配とその消費・蓄積の全過程、およびその中で営まれる社会的関係の総体』と解釈されているように、資本主義体制にとって不可欠の要素であり、経済という概念を用いて市場を運営し、このシステムを駆動するために、資本家が各産業にたいして多額の投資を行い、その利潤が最大化される部分で、世界的な流通・交換・分配が行われ、そのストックとして、われわれが消費・蓄積を行います。
そもそも、経済が学問として台頭するようになった代表的名著にアダム=スミスの『国富論』(1776年)がありますが、この年はまた、アメリカが独立宣言を発表した年でもあり、また、ヨーロッパ大陸では市民革命の咆哮が各地で上がり、イギリスなどは市民革命を成し遂げた後、産業革命に突入しつつある、まさに激闘の時代に、今の資本主義体制の基礎が確立されたと言えます。別な見方をすると、『市民革命によって職業が自由化された⇒大量の物々交換の必要性⇒市場と金融の要請⇒資本主義社会・経済至上主義の台頭』という構図になります。
ある意味、資本主義は民主主義を運営していく上で、絶対的な役割を担っており、それ以外の体制の末路は近代200年間の歴史が物語っています。しかしながら、この期間は、人類の経済活動において、二酸化炭素という概念はほとんど付加されていませんでした。
二酸化炭素についての国際的な研究が具体的に開始されたのは、1988年にEUが主体のIPCCが設立されてからであり、“排出量”という言葉が用いられ始めたのはこれ以降だったと思います(これは、あくまで二酸化炭素に特化した、という観点からです)。
人類が経済活動を行うと、二酸化炭素が排出されるのは自明の理であり、これの回避は熱力学第二法則に反します。二酸化炭素の排出量を削減することは、単純に“経済規模を縮小する”か、“人口を削減する“か、“新たなシステムを構築して、その中で二酸化炭素の取引をする”ことに相当するのではないかと思います。現実的な手段として、京都メカニズムにおいて、“炭素取引”は実用化しています。実際、我が国はこのメカニズムをもちいて2012を達成しようとしています。
われわれが経済性を鑑みず、ひたすらに低炭素社会を実現するために邁進したとするならば、われわれが不可抗力によって排出する二酸化炭素は森林吸収減と等しくなり、理想的な炭素循環は実現するでしょう。しかしながら、われわれが経済を手放すということは、資本主義を放棄(または脱却)することであり、これすなわち民主主義体制の崩壊を意味し、最終的に持たざる者が持つ者によって支配される、といった、帝国主義の再来たる懸念も生じてきます。
この議論の真意は、まさにここにあるような気がいたします。実際の話、現在10億にも満たない我々が先進国が、かつて一方的に確立した経済原理を用いて資源欲しさに世界各地に武力を用いて進出し、大量の化石資源を消費し、経済を発展させ世界を支配した挙句、その弊害は70億に達そうとしている世界人類の頭上とその未来に平等に降り注いでいます。
前述したように、経済市場主義はたとえ欠陥があるにしても、民主主義社会を目指す以上、不可欠なシステムであることは間違いありません。かつて、イギリスのチャップリン首相はこう述べました。
『民主主義は最悪の統治システムである。これまで存在してきたあらゆる統治体制を除いては。』
また、アメリカの第35代大統領J.F.ケネディはかつてこう述べました。
『世界で起こるあらゆる事象は、ある必然的な意志によって支配されている。』
『神の見えざる手』は、本当に『神』なのでしょうか?
さてここで、われわれが、この日本が成さなければならないことは一体なにか?という話になってくるかと思います。
それは、かつてこの国が200年間戦争がなく、完全に閉じたシステムの中で経済活動を全うしてきたという歴史と、和という調和を尊ぶ質実剛健な精神を思い返し、自然界に存在しているような、最小のエネルギーで駆動する、最も効率のよいシステムである自然の中で知恵とテクノロジーをはぐくみ、その中で共存する、といった経済システムを確立することではないかと思います。これは、世界広しといえ、日本にしか成せない技であると思います。
炭素に値段をつけたところで、歴史は、埋蔵資源完全枯渇といった局面に直面した時に、繰り返すことでしょう。
変えなければならないのは、経済システムであり、考えないといけないことは、これからの共生の在り方です。
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カーボニストの台頭です。
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